サラエボ事件とは?あれから100年、世界大戦の始まりを振り返る【その1】 ~日露戦争で揺らいだオスマン帝国の統治~ [ニュース]
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サラエボ事件、火薬庫に火を付けた皇太子の暗殺
サラエボ事件とは、オーストリア・ハンガリー帝国に併合されたボスニア・ヘルツェゴビナでオーストリア皇太子が暗殺された事件。
逮捕された暗殺グループの証言で、暗殺組織の背後にセルビア政府がいた事が判明する。
これにより、オーストリアはセルビアの責任を追求し、セルビアに宣戦布告することになる。
しかし、セルビアの背後にはロシアがおり、オーストリアの宣戦布告を受けてロシアが国家総動員を発動。
ロシアが動いたことで、独墺伊の三国同盟の一員でありロシアと対立していたドイツも戦争の準備を始める。
そして、英仏露協商を結んでいたイギリスとフランスも備えを始める。
こうして、ヨーロッパ全土を巻き込んだ世界大戦が始まった。
この、全てのきっかけとなったサラエボ事件を引き起こした原因とは?
複雑に絡み合った民族問題を加速させ、
バルカン戦争を引き起こした最大の原因であるオスマン帝国の衰退から追って行く。
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オスマン帝国の露土戦争での敗北と立憲制の停止
オスマン帝国の衰退は、クリミア戦争での辛勝から露土戦争での敗北にかけて決定的になった。
露土戦争の直前に、オスマン帝国ではオスマン帝国憲法であるミドハト憲法が制定され、近代国家への移行が始まったばかりだったが、ロシア戦での敗北で、憲法が皇帝の力を弱め、ロシアに負けた原因になったとして、オスマン帝国皇帝スルタン・アブデュルハミト2世により立憲制が停止される。
それ移行、オスマン帝国は皇帝の専制政治が始まることとなる。
これで済めば良かったのだが、オスマン帝国内部では、立憲制復活を目指す運動が水面下で進み始める。
そして、立憲制復活への運動が活発になるきっかけを作ったのが日露戦争だった。
「立憲制を敷いたばかりの小国日本が、超大国ロシアに勝利した」
これにより、立憲制が先進的な国家のあり方であると証明され、直後に隣国ペルシャで立憲制が始まる事となる。
これがオスマン帝国の青年活動家の心に火を付け、青年トルコ人革命と呼ばれる、立憲制復活を謳った革命が起こることになる。
これにより、皇帝による専制政治は終わり、皇帝アブデュルハミト2世は最終的に退位にまで追い込まれる。
しかし、皇帝なき後の政治のあり方で混乱が生じ、
その隙に乗じて、オスマン帝国の支配下にあった東欧の国々、特にバルカン半島の国々が、「ロシアの支援を受けて」次々に独立を宣言し始めた。
この時に、オーストリア・ハンガリー帝国が、民族統合を謳ってボスニア・ヘルツェゴビナを併合している。
そして、ボスニア・ヘルツェゴビナを除くバルカン半島の国々は、バルカン同盟を結成。
強固な反攻体制を強いて、オスマン帝国に対抗することになる。
もし、この時オスマン帝国に独立を阻止する力があれば、併合を止められるだけの力があれば、世界大戦は起こっていなかったかもしれない。
世界大戦直前のオスマン帝国の領土は、下の図ほどまでに小さくなっており、
ロシアの支援を受けた国々を相手に十分に戦える程の力は既に無くなっていた。
【次へ】
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ロシアが動いたことで、独墺伊の三国同盟の一員でありロシアと対立していたドイツも戦争の準備を始める。
そして、英仏露協商を結んでいたイギリスとフランスも備えを始める。
こうして、ヨーロッパ全土を巻き込んだ世界大戦が始まった。
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そして、立憲制復活への運動が活発になるきっかけを作ったのが日露戦争だった。
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そして、ボスニア・ヘルツェゴビナを除くバルカン半島の国々は、バルカン同盟を結成。
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もし、この時オスマン帝国に独立を阻止する力があれば、併合を止められるだけの力があれば、世界大戦は起こっていなかったかもしれない。
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