サラエボ事件とは?あれから100年、世界大戦の始まりを振り返る【その3】 ~悲劇の皇太子、女中だった妻とお腹の子供と共に暗殺される~ [ニュース]
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【その1】 ~日露戦争で揺らいだオスマン帝国の統治~
【その2】 ~バルカン戦争からサラエボ事件前夜~
セルビアの野心
オスマン帝国の支配力が弱まり、バルカン戦争が起こったことで、領土を拡大し、抑圧されていた民族統一(汎スラブ主義)の機運が高まったセルビアは、ロシアの後押しもあり、ボスニア・ヘルツェゴビナを手に入れようという野心を抱き始めていた。
一国では敵わなくとも、連合して戦えば勝てるということは先のバルカン戦争で証明されている。
そんな時、オーストリア皇太子であるフランツ・フェルディナント大公がボスニア・ヘルツェゴビナを訪れる事が決定する。
彼を暗殺することでオーストリア・ハンガリー帝国を弱体化させ、さらに戦争を誘発させることができれば、ロシアの支援で戦争に勝利し、さらなる領土の拡大が可能になる。
そんな思惑を持っていたセルビアと、ブラックハンド(ツルナ・ルカ)と呼ばれる大セルビア主義を掲げるテロ組織が水面下で動き始める。
ブラックハンドはセルビアより武器・毒物の供与を受け、暗殺計画を練り始める。
そして、大公の暗殺を達成するガヴリロ・プリンツィプもブラックハンドの計画に加わっていた。
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フランツ・フェルディナント大公
フランツ・フェルディナント大公(フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン)は、オーストリア元皇帝の甥であり、現在の皇帝には息子がいたため、本来は皇太子ではなく、皇帝になれるはずのない普通の皇族であったはずだった。
しかし、ルドルフ・ヨーゼフ皇太子が、愛人と共に謎の心中(暗殺とも言われる)を遂げたため、
にわかにフランツ・フェルディナンド大公が皇太子として担ぎあげられる事となる。
ところか、自身が皇帝となるとは考えていなかった彼は、オーストリア大公フリードリヒの妻の「女中」であった「ゾフィー・ホテク」に恋をしており、皇太子となってからも彼は彼女を本気で愛していたようだった。
最終的に、周囲の大反対を受けながらも、ゾフィーを皇太子妃とすることを決めたフランツ大公は、ゾフィーが皇族としての権利を全て放棄する事で結婚を認めさせた。
しかし、フランツ大公が皇帝になってしまえば、権利の放棄を無かった事にする事も可能であり、ゾフィーは周囲から冷遇され続け、フランツ大公自身も周囲から睨まれると言う様な状態だった。
そんな中、彼はサラエボの軍事演習の視察を決める。
実は、ゾフィーはチェコの出身であり、ドイツやオーストリアの「ゲルマン系」ではなく、所謂「スラブ系」のセルビア人やロシア人に近い血筋を持っている人物でもあった。
そのため、フランツ大公はスラブ系の人民に親近感を抱いており、ボスニアを併合するだけではなく、
オーストリア・ハンガリー・ボスニアの三国を合わせた帝国を作ろうと考えていたほどだった。
こうして、ゾフィーのお腹の中の子供と共に、三人は命を落とすことになるボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに足を運んだのであった。
フランツ大公の優しさが招いた悲劇
ブラックハンドの暗殺計画は、実は失敗していた。
10人近い実行グループは、爆弾・狙撃・至近距離からの銃撃を含めた多重の皇太子暗殺作戦を計画したが、「狙撃」は狙撃機会を逸して失敗、「爆弾」は肝心の大公の車両を爆破できずに周囲を巻き込んだだけで失敗、肉薄しての銃撃も民衆や護衛が多くて断念、もしくは失敗している。
そして、大公を乗せた車両は無事にサラエボの市庁舎へと到着した。
暗殺計画は失敗。
それで終わるはずだった。
しかし、そこに偶然が重なった。
フランツ大公は市庁舎に戻った後、自身の暗殺を試みた爆弾で負傷した一般人を見舞おうと病院に向けて市庁舎を出る。しかし、道を間違えた車両は偶然にも、銃撃による暗殺を断念したガヴリロ・プリンツィプによって見つかってしまう。
そして、護衛が手薄となっていた状況で、プリンツィプは妻のゾフィーとフランツ大公を銃撃する。
子供がいたゾフィーの腹部と、フランツ大公の首に当たった。
銃撃の直後は二人ともまだ意識があり、その場にいた運転手が大公の最後の言葉を覚えていた。
「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」
そう言って、フランツ大公は亡くなったという。
フランツ大公が、スラブ系の女性を妻に迎えなければ、サラエボに赴かなければ、病院に見舞いに行かなければ、起きなかった悲劇かもしれない。
フランツ・フェルディナント皇太子
皇太子妃ゾフィー
世界大戦の勃発
プリンツィプは背後関係がばれない様に毒を飲んで自殺を図るが失敗。
さらに、他の自殺に失敗した暗殺者などの証言で、暗殺計画の背後にセルビアがいることが判明した。
前皇太子であるフリードリヒが、暗殺とも思われる心中を遂げていたこともあり、
オーストリアの人々は、フランツ皇太子の死に対し、戦争を起こすほどの熱は無かった。
ところが、前皇太子の華やかな葬儀とは違い、貴賤結婚で冷遇されていた二人の慎ましい葬儀とフランツ大公とゾフィーの関係が民衆に知れるようになると反応は変わった。
民衆は二人に同情し、セルビアへの報復を望むようになった。
そして、オーストリアはセルビアに最後通牒を行い、第一次世界大戦の幕が切って落とされることになる。
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そんな時、オーストリア皇太子であるフランツ・フェルディナント大公がボスニア・ヘルツェゴビナを訪れる事が決定する。
彼を暗殺することでオーストリア・ハンガリー帝国を弱体化させ、さらに戦争を誘発させることができれば、ロシアの支援で戦争に勝利し、さらなる領土の拡大が可能になる。
そんな思惑を持っていたセルビアと、ブラックハンド(ツルナ・ルカ)と呼ばれる大セルビア主義を掲げるテロ組織が水面下で動き始める。
ブラックハンドはセルビアより武器・毒物の供与を受け、暗殺計画を練り始める。
そして、大公の暗殺を達成するガヴリロ・プリンツィプもブラックハンドの計画に加わっていた。
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フランツ・フェルディナント大公
フランツ・フェルディナント大公(フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン)は、オーストリア元皇帝の甥であり、現在の皇帝には息子がいたため、本来は皇太子ではなく、皇帝になれるはずのない普通の皇族であったはずだった。
しかし、ルドルフ・ヨーゼフ皇太子が、愛人と共に謎の心中(暗殺とも言われる)を遂げたため、
にわかにフランツ・フェルディナンド大公が皇太子として担ぎあげられる事となる。
ところか、自身が皇帝となるとは考えていなかった彼は、オーストリア大公フリードリヒの妻の「女中」であった「ゾフィー・ホテク」に恋をしており、皇太子となってからも彼は彼女を本気で愛していたようだった。
最終的に、周囲の大反対を受けながらも、ゾフィーを皇太子妃とすることを決めたフランツ大公は、ゾフィーが皇族としての権利を全て放棄する事で結婚を認めさせた。
しかし、フランツ大公が皇帝になってしまえば、権利の放棄を無かった事にする事も可能であり、ゾフィーは周囲から冷遇され続け、フランツ大公自身も周囲から睨まれると言う様な状態だった。
そんな中、彼はサラエボの軍事演習の視察を決める。
実は、ゾフィーはチェコの出身であり、ドイツやオーストリアの「ゲルマン系」ではなく、所謂「スラブ系」のセルビア人やロシア人に近い血筋を持っている人物でもあった。
そのため、フランツ大公はスラブ系の人民に親近感を抱いており、ボスニアを併合するだけではなく、
オーストリア・ハンガリー・ボスニアの三国を合わせた帝国を作ろうと考えていたほどだった。
こうして、ゾフィーのお腹の中の子供と共に、三人は命を落とすことになるボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボに足を運んだのであった。
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10人近い実行グループは、爆弾・狙撃・至近距離からの銃撃を含めた多重の皇太子暗殺作戦を計画したが、「狙撃」は狙撃機会を逸して失敗、「爆弾」は肝心の大公の車両を爆破できずに周囲を巻き込んだだけで失敗、肉薄しての銃撃も民衆や護衛が多くて断念、もしくは失敗している。
そして、大公を乗せた車両は無事にサラエボの市庁舎へと到着した。
暗殺計画は失敗。
それで終わるはずだった。
しかし、そこに偶然が重なった。
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そして、護衛が手薄となっていた状況で、プリンツィプは妻のゾフィーとフランツ大公を銃撃する。
子供がいたゾフィーの腹部と、フランツ大公の首に当たった。
銃撃の直後は二人ともまだ意識があり、その場にいた運転手が大公の最後の言葉を覚えていた。
「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」
そう言って、フランツ大公は亡くなったという。
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世界大戦の勃発
プリンツィプは背後関係がばれない様に毒を飲んで自殺を図るが失敗。
さらに、他の自殺に失敗した暗殺者などの証言で、暗殺計画の背後にセルビアがいることが判明した。
前皇太子であるフリードリヒが、暗殺とも思われる心中を遂げていたこともあり、
オーストリアの人々は、フランツ皇太子の死に対し、戦争を起こすほどの熱は無かった。
ところが、前皇太子の華やかな葬儀とは違い、貴賤結婚で冷遇されていた二人の慎ましい葬儀とフランツ大公とゾフィーの関係が民衆に知れるようになると反応は変わった。
民衆は二人に同情し、セルビアへの報復を望むようになった。
そして、オーストリアはセルビアに最後通牒を行い、第一次世界大戦の幕が切って落とされることになる。
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